こんばんは。2度目のコーセーです。
早速本題。
ヒグマが大学生5人を襲った…「福岡大ワンゲル部ヒグマ事件」の記憶について考える
クマによる人身被害は、毎年春から秋にかけて各地で発生している。しかし、元来クマは人間を恐れる動物であり、積極的に襲ってくることはないとされる。ある程度、距離が離れていれば、まずクマが先に人間の存在に気づき、たいていは自らその場から逃げていくという。
例外は、見通しの悪い場所などでお互いが相手の存在に気づかず、至近距離で人間とクマがばったり遭遇してしまったときだ。そうなったときにクマはパニックに陥り、我が身や我が子を守るため、逃げ出さず死に物狂いで人間に立ち向かってくる。クマによる人身被害のほとんどは、そのような状況で起きている。 ただ、ごく稀に、同一個体のクマが捕食目的で立て続けに人間を襲うことがある。今からちょうど50年前の夏、北海道の日高山脈でその事件は発生した。
1970(昭和45)年、福岡大学ワンダーフォーゲル同好会の夏季合宿は北海道日高山脈で行なわれることになった。メンバーは、リーダーの太田陽介(仮名・3年)以下、サブリーダーの辻博之(仮名・3年)、平野哲哉(仮名・2年)、坂口剛(仮名・1年)、杉村仁志(仮名・1年)の5人で、日高山脈北端の芽室岳から山脈中部のペテガリ岳までを、13日間かけて縦走する予定だった。 5人は7月14日に上川郡清水町の芽室岳登山口から入山し、芽室岳を経てルベシベ山、ピパイロ岳、戸蔦別岳、幌尻岳と主脈を南に向かってたどっていった。25日にはエサオマントッタベツ岳の山頂を踏み、春別岳南側の九ノ沢カールにテントを張った。5人が初めてヒグマの姿を目撃したのは、この日の午後4時半ごろのことである。 クマは全長2メートルほどで、黄金色や白色が目立つ茶色の毛並みをしていた。最初のうちはテントから6~7メートル離れたところでテントの様子をうかがっていたが、やがてだんだん接近してきて、テントの外に置いていたキスリング(注:リュックサックの一種)を破いて中の食料を漁り出した。 危機感を覚えた5人は隙を見てキスリングをすべてテントの中に入れたのち、クマを近付けないために火を起こし、ラジオの音量を上げて食器を打ち鳴らした。クマはいったん退散したものの、午後9時ごろになって再び現れ、爪でテントに拳大の穴を開けたのち、またどこかに去っていった。その夜はクマの襲来に備え、2人ずつ交代で見張りをした。 翌26日の朝4時半ごろ、再度姿を現したクマは、より大胆な行動に出た。テントのすぐそばまで近寄ってきて、入口を爪で引っ掻きはじめたのだ。5人はテントが倒されないように中でしっかりポールを支えていたが、とうとう破られてしまった。いっせいに外に飛び出して逃げた5人が、50メートルほど離れた場所から振り返ってみると、クマは倒れたテントの近くに居座ってキスリングの中の食料を漁っていた。 再三にわたる襲撃に、リーダーの太田は自分たちだけでは対処しかねると判断し、ハンターの出動を要請してくるよう辻と杉村に言付けて山を下らせた。 九ノ沢を下っていった2人は、途中で北海道学園大学の登山部員たちと出会った。彼らもまたクマに襲われたため、ザックを放棄して下山する最中だった。辻と杉村の2人は、登山部員らにハンターの出動を要請する伝言を依頼し、再び引き返して、午後1時ごろ太田ら3人と合流した。 この間、稜線に残っていた3人は交代で仮眠をとりながらクマの監視を続け、クマの姿が見えなくなった隙に全員のキスリングを奪い返していた。そこに鳥取大学登山部のメンバーが通りかかった際、太田は「クマがうろついているから危ない」と注意を促している。 合流した福岡大学のメンバー5人は、1時間ほど稜線をたどったところでその日の行動を打ち切り、テントの設営に取り掛かった。しかし、夕刻の午後5時10分ごろ、またしてもクマが姿を現した。靴を履く暇もなく慌ててテントから逃げ出した5人は、しばらく様子をうかがっていたが、クマはテントに居座っていて動く気配はない。そこで先ほど出会った鳥取大学登山部が幕営している八ノ沢カールまで下りていって、助けを求めることにした。 だが、稜線から50~70メートルほど下ったときに、あとを追ってくるクマの姿が目に入った。クマは最後尾を歩く辻の後方10メートルにまで迫っていた。いっせいに駆け出した5人はハイマツ林のなかで散り散りになってしまったが、間もなく太田と辻と坂口の3人は合流でき、岩場の影に隠れて一夜を明かすことにした。 平野は鳥取大学登山部の幕営地を目指して下りていったが、途中でクマに追いかけられたため必死で逃げ回り、張ってあったテントを見つけてその中に入り込んだ。しかしテントの中には誰もおらず、腹を決めてそこで救助を待つと決めた。 杉村はクマに追いかけられているのを目撃されていたが、その後の消息は途絶えていた。 夜が明けた27日の朝はガスが濃く、視界は5メートルほどしかなかった。岩場に避難していた太田ら3人は、8時から行動を再開して下りはじめたが、15分ほど移動したところで突如クマが現れて行く手を遮った。 とっさに辻が「死んだ真似をしろ」と声を上げ、3人はいったん地面に身を伏せたものの、クマが唸り声を発すると同時に太田が立ち上がり、カールに向かって駆け下りていった。クマはすぐにそのあとを追っていき、濃いガスのなか、太田とクマの姿はたちまち見えなくなった。残った辻と坂口は懸命に山を下り続け、なんとか無事に山麓までたどり着いた。 その後の捜索・救助活動によって、消息不明となっていた太田、杉村、平野の3人は八ノ沢カールで遺体となって発見された。遺体はいずれもクマの襲撃を受けて爪痕が残っており、損傷が激しかった。平野の遺体の近くで見つかった手帳には、クマに襲われる寸前まで、一人テントの中で怯えながら救助を待つ、彼の生々しい心境が綴られていた。その一部を以下に抜粋する。 「(27日午前)4時頃目がさめる。外のことが、気になるが、恐ろしいので、8時まで、テントの中にいることにする。(中略)もう5時20分である。またクマが出そうな予感がするのでまた、シュラフ(注:寝袋)にもぐり込む。ああ、早く博多に帰りたい」 「7時 沢を下ることにする。にぎりめしをつくって、テントの中にあった、シャツやクツ下をかりる。テントを出て見ると、5m上に、やはりクマがいた。とても出られないので、このままテントの中にいる」 「3時頃まで…(判読不能)…他のメンバーは、もう下山したのか。鳥取大WV(ワンダーフォーゲル部)は連絡してくれたのか。いつ助けに来るのか。すべて、不安で恐ろしい」 3人を襲ったと思われるヒグマは、29日の夕刻、現場付近に姿を現したところをハンターによって射殺されたが、20発以上の弾丸を受けても倒れなかったと記録されている。クマは4歳の雌と推定され、体重は約130キロだった。
クマが捕食のために人間を襲った例は、これだけにとどまらない。よく知られているのは、1915年12月に起こった「三毛別ヒグマ事件」だ。同じく北海道の苫前郡苫前村三毛別(現在の苫前町三渓)で、ヒグマが再三に渡って開拓民の集落を襲い、7人が死亡し、3人が重傷を負った。 吉村昭が著した小説『羆嵐』はこの事件を題材にしたものであり、北海道庁元林務官の木村盛武も、事件を丹念に取材して『慟哭の谷』というノンフィクション作品をまとめている。 また、1923年8月には北海道雨竜郡沼田町で、ヒグマが祭帰りの開拓民の集団や人家、駆除隊を襲撃し、5人が命を落とし、3人が重傷を負った。 記憶に新しいところでは、2016年5月から6月にかけて、秋田県鹿角市の十和利山山麓で山菜採りに来ていた人が立て続けにツキノワグマに襲われ、4人が死亡、4人が重軽傷を負うという事件が起きている。襲撃したと見られる雌グマは同年6月に駆除されたが、「事件には複数のクマが関与していた」とする説もある。 人間がクマに襲われて命を落とした場合、被害者や遺族への配慮から事件が公表されないことが多い。そのため、私たちの知らないところで起きている事件もあるようだ。また、最初から捕食目的で人間を襲ったのか、結果的に遺体を食べてしまったのか、判別が難しい。 というのも、クマが我が身を守るためにとった行動によって人間が死に至ったとしても、なんらかのきっかけで遺体を食べ物と認識してしまうケースもあるからだ。そのようにして人間の味を覚えたクマは、繰り返し人間を襲うようになるという。 さらに怖いのは、人間がエサとなる食料を所持していると、クマが学習してしまうことだ。今年の7月下旬から8月上旬にかけて、上高地の小梨平キャンプ場では、クマが何度もゴミ捨て場を漁り、最終的にはキャンパーのテントを襲うという事故にまで発展してしまった。 福岡大学の事例も、当初のヒグマの狙いは学生たちが携行していた食料だった。それを取り返そうとしたために悲劇は起きた。クマは執着心が非常に強く、いったん獲得したものは「自分の所有物である」と認識する。それを奪い返そうとするのは自殺行為に等しい。 ヒグマが逃げた学生たちを執拗につけ狙ったのは、人間が食料を持ち歩いていることを学習したためか、襲った人間の味を覚えてしまったためなのかは判断できない。いずれにしても、いくつかの不幸の連鎖によって事故が起きてしまったことだけは確かだ。 クマによる人身被害は、多い年には年間150件近くを数えることもある。被害に遭う登山者や山菜・キノコ採りの人はあとを絶たず、今年だけでも福島県西会津町の木地夜鷹山や飯豊連峰、三重県の大杉谷、群馬県の蟻川岳などで登山者がクマに襲われている。昨年夏にはカムイエクウチカウシ山で、50年前の事件を思い起こさせるかのような、ヒグマによる登山者襲撃事故が立て続けに起きた。 コロナの影響により登山者が減少したことで、「逆にクマの活動域が広がっているのでは?」と指摘される今、クマとの適切な距離を保つ方策と、遭遇を極力回避するための行動が、我々にはなおいっそう求められるのである。とのこと。
熊に出会ったら、一目散に逃げることが大事。熊に奪われた荷物を取り戻そうとすると被害に遭うリスクは大きく高まる。今は熊を駆除しようにも、発砲許可を申請しなければならないという世の中。猟銃の使用が違憲に当たるとして、現在裁判になっている。どうか本来の在るべき状態に戻って欲しい。
そんなわけでまた明日(''ω'')ノ